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按司根津栄(あじねつえい)神社

 

母の故郷、与論島。

ご縁があり、与論島にある「按司根津栄神社」の社殿建替工事に携わらせていただきました。

自分のルーツとなるこの地で、

この地に語り継がれる英雄を祀る神社の屋根に瓦を葺けたこと、

この地に自分の作品となる建物が残ること、

私の人生において最高の宝物です。

瓦のすばらしさ、瓦の魅力を改めて感じました。

按司根津栄神社の写真とともに、

按司根津栄神社のご紹介もさせていただきます。

「尊加那志」(とーとぅがなし)

与論島の言葉で「ありがとう」

​アジニッチェー
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​按司根津栄伝説

 今からおよそ800年前の話です。

与論島の根津栄という集落にヌルという娘がいました。

娘は畑仕事の休憩中、疲れてその場で眠ってしまいました。

すると夢に白髪の老人が出てきて、娘に「まもなく子供が生まれるだろう。大切に育てなさい」と告げ消えました。その後お腹がどんどん大きくなり男の赤ちゃんが生まれました。

  赤ちゃんは生まれたばかりで1才くらいの男の子のように見えたので、家族は鬼の子供ではないかと恐れ、埋めてしまいました。するとその夜から埋めた場所が毎晩ピカピカと光り、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。恐る恐る埋めた場所を確認すると地面には亀裂が入り、掘り起こすと、埋めたはずの男の子が6歳くらいに成長していました。家族は驚き、神様からの授け物だと思って大切に育てました。

   男の子にはインジュルキという名前の妹がおり、インジュルキは弓の名人で島一番の頑丈で優れた弓を使っていました。         

そして男の子は、剣術や弓の他にも全ての武術に長けた男へと成長しました。男の噂は琉球(今の沖縄)にまでも響き渡り、琉球の王様が一度会ってみたいと男を琉球に呼びました。王様は男の事をすごく気に入って「与論島より北の島々を与える」と言い按司(島を収める長)の位を与えました。名前を聞かれた男は「名前は無いが根津栄(ニッチェー)という場所で生まれた」と王様に伝えました。王様は按司という位とニッチェーという出身地を合わせて按司根津栄(アジニッチェー)という名前を与えました

 按司根津栄は数年間、優秀な戦力として王様の側にいましたが、島に帰って家族に会いたいと王様にお願いをしました。何度も断られましたが「それほど言うなら仕方がない。そのかわり命の次に大切なものを残していくように」といわれたので仕方なく妹から借りてきた大切な弓を残して帰りました。島に帰り妹にその事を話すと、大切にしていた弓が帰ってこなかったことを凄く悲しみました。按司根津栄はなんとか妹を慰めようと丈夫な桑の木を探して弓を作りました。それでも妹の悲しみは収まらず、按司根津栄は何としても琉球の王様から弓を取り戻そうと沖縄に向かいました。しかし王様はその弓を宝物として大切に飾っていました。

 按司根津栄は王様に弓を返して貰えないだろうと確信し、城の壁をよじ登り屋根から忍び込んで弓を取り返し、妹に弓を返しました。妹は非常に喜び元気を取り戻しました。

  その頃琉球の城の中では弓が無くなり大騒ぎになりました。王様は「こんなことができるのは按司根津栄しかいない。与論を滅ぼせ」と怒って兵隊を1000人与論島に向かわせました。船倉海岸の沖で按司根津栄が漁をしていると、伝書鳩で「琉球の敵の船が茶花の港に着こうとしている」との知らせを受けました。按司根津栄は驚き、兜をかぶらずに黒い馬にまたがり急いで戦いに向かいました。ピャーヌパンタを駆け下りると敵はすぐそこまで攻め上ってきていました。按司根津栄は刀を抜き右に左に斬りまくり1000人の敵をなぎ倒しました。按司根津栄は茶花海岸に着き、敵の船番をしていたおじいさんに「もう二度とこの与論に兵を向けるな。王様に伝えよ」と叫び、帰ろうと後ろを向いたそのとき、お爺さんが太陽に向かって放った弓矢が偶然、按司根津栄の頭に突き刺ささり、按司根津栄は死んでしまいました。

  これを見た敵のおじいさんは喜び、ご褒美をもらおうと急いで琉球に帰り王様に報告しました。それを聞いた王様は「お前のような者が按司根津栄を倒せるわけがない、もう一度兵を千人与論に送りこめ」と伝えました。

 琉球兵が攻めてきたことに気付いた与論の人々は按司根津栄の死体をまるで生きているかのような格好で丘の上に立てました。琉球の兵が茶花の沖から与論を見てみると丘の上に按司根津栄が武装し仁王立ちしているのが見えました。その勇ましい格好は軍船を睨み付け、上陸するものは切り捨てるぞ、という構えに見えました。恐れをなした琉球兵は上陸しても勝てる気がせず、そのまま引き返せば王様の怒りに触れるということで大混乱となり海に飛び込んだり自害したりで全滅しました。

 この按司根津栄の戦いぶりは後に「生きて千人、死んで千人」と語り継がれ与論を守った神様として祀られるようになりました

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